1 旅立ち・・・薄紫の富士に送られて   10/18 晴れ

 

5時にとび起きて、朝ご飯を食べ、タクシーで飛び出す。

7時10分の東名高速バスで渋谷を出発。

 

ゆうべは夜中の2時半頃まで、リュックに詰めたり出したりでバタバタ。

リュックの重さは何とか 7.5キロまで減らした。

 

バスはすいていて ぐっすり眠る。御殿場の手前でひょいと目が覚めたら、窓の外に薄紫色の富士山がある。

何度も東名を行き来したが、山裾まで見えたのは初めて。

雲は峰の右側に少しあるきりで、天気は上々、思いも寄らない富士の色だった。

 

ハイウエイの両側には、ススキが点々と続いている。

一面のすすきヶ原になっているところもある。

もう盛りが過ぎたのか痩せて貧弱に見えた。

もともとのすすきの原を 我が物顔に突っ切らせて、

道路を作ったのだと思うと、何だかくやしい気分になる。

 

ひとしきり眺めて、また寝た。

 

------------------------------------

新静岡に着き 狐ヶ崎へ向かう。

駅でリュックを預け、学生時代お世話になった 高瀬さんのところに行く。

どうしても寄りかった。 いきなり訪ねていいものか、ドキドキする。

 

高瀬さんに、」足摺岬の先、沖ノ島の話を聞いていなかったら、

こんなに早く四国行きを決めなかったかもしれない。

四国へ行くことを話し、お昼をご馳走になる。

弘法大師にまつわる 食わず芋や、一年に三度実のなる栗や、湧き水のことなども聞く。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 

草薙で下りて、女子大へ。

 

研究室の I さんはお休み。

K先生は22日までやはり海外。ひょっとしたら会えるかなと、思っていたのだけど。

 

O先生にもご挨拶する。

「お遍路さんの格好をした方がいいよ」と言われる。  どうしたものか・・・

 

I さんのところで泊めてもらおうかと当てにしてきたのだが、

急きょ変更!

名古屋の Oさんに頼むことにして電話する。

 

夕方Mさんに電話する。

仕事に疲れているようだ。

毎日のようにお見合いの話があって、うるさいのも通り越して可笑しいとのこと。

 

 

----------------------------------------------------------

4時20分のこだまで名古屋へ。
Oさんを訪ねる。Tさんは交通事故で入院したとか。会いたい。

結婚についても色々話すが、
そんなことより 「われてくだけてさけて散るかも」と
正面きった生き方をしたいと言うことで一致。

 

 

明日はやはり、高野山へまわろう。

高野山で泊まって、和歌山から小松島までの船にしよう。

 

ただ四国へ行きたい、八十八ヵ所を回りたいという一心で、

めくら滅法に飛び出してきてしまった。

 

リュックには 四国の地図、百科事典の遍路の項のコピー、

友人が探して来てくれた「四国八十八ヶ所遍路記」(西端さかえ著)

これだけの資料。

 

出発前にいった、大丸の徳島の観光物産の案内所で、

「とにかく一番札所へ行けば教えてくれる」というのを信ずるのみ。

 

資金は、現金6万円、貯金通帳に4万円。

 

やはり、リュックが重い。

 リュックの中に 何を入れたのか?

 

着替えと下着、

予備の靴も1足、傘

手提げバック、地図、

財布、通帳、カメラ

四国のガイドブック、

筆記用具、

タオル、バスタオル、

ビニール袋、紐、

輪ゴム、はさみ、

針金ハンガー、

洗濯バサミ、洗面道具

 

こんなものだったろうと思う。

 

 

当時はウエストポーチなどというものもなく、

 

紙の下着は、話には聞いていたが、手に入れることは出来なかった。

 

一晩で乾かなかった洗濯物は、昼間リュックに下げて乾かしながら歩いた。

もちろん人通りのない山中でのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今ほど四国遍路は注目されてなくて、案内書も見つからず、雲をつかむような不安な旅立ちだった。

 

 

 

 

 

当時の私の月給は

約3万円。

友人たちはもうちょっと貰っていたと思う。